E-BIKEで巡る唐津・松浦党の故郷「岸岳城と獅子城を攻略する歴史探訪サイクリング」

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ブリット野口です。

唐津は、呼子のイカや唐津焼で知られる美しい海辺の街です。しかし、その奥深い山々には、かつて、日本を動かした武士団、松浦党(まつらとう)の栄光と悲劇が眠っていることをご存じですか?

松浦党の故郷を訪ねる歴史旅
移動手段は、話題のE-BIKE(電動アシスト自転車)。岸岳城や獅子城といった山城の跡を巡るだけではなく、地域に残る文化も一緒に案内します。松浦党が駆け抜けた山道を、現代の乗り物で風を切りながら巡る、特別な歴史探訪サイクリングの魅力を紹介します。

海の武士団「松浦党」とは?
松浦党は、平安時代から鎌倉時代にかけて、肥前国松浦郡(現在の唐津市周辺)を拠点とした武士団です。彼らは一族の結束が強く、海の支配者、水軍としても名を馳せました。E-BIKEで唐津の山間を走ると、その地形が松浦党の強さの秘密であったことが肌で感じられます。彼らは広大な海だけでなく、この複雑な山々を要害として支配していたのです。

宗家と親族「二つの城と源氏の血筋」
上松浦党の礎を築いたのは、嵯峨源氏の末裔です。この一族の系譜は複雑ですが、主要な関係性を整理すると、上松浦党の興隆が一族の連携によって築かれたことがわかります。
源持(みなもとのたもつ)
松浦党の宗家である 波多氏(はたし)の祖。波多郷(北波多)の要衝に 岸岳城(きしだけじょう)を築きました。
源披(みなもとのひらく)
源持の甥にあたる人物で、厳木郷に獅子城(ししがじょう)を築きました。彼は後に鶴田氏(つるたし)の祖となります。
このように、岸岳城の波多氏が宗家として全体をまとめ、獅子城の鶴田氏が親族の有力な一族として支えるという構図が、上松浦党の勢力を確固たるものにしました。

E-BIKEのパワフルなアシストがあれば、標高の高い岸岳城跡へも、厳木町の交通の要衝にある獅子城跡へも、軽快にアクセスできます。かつて、武士たちが馬で駆け上がった道を、現代の技術で追体験できるのがE-BIKEツアー最大の魅力です。

E-BIKEで辿る戦国時代の葛藤
時代が下り、戦国時代になると、松浦党内の力関係は変化します。上松浦の支配者となった波多氏は、親族でありながらも独自の勢力を持つ鶴田氏と、時に協力し、時に激しく対立しました。E-BIKEで、両城跡間の距離を走ってみると、盟主としての波多氏の拠点と、要衝を押さえる鶴田氏の拠点が、戦略的に微妙な距離感を保っていたことを体感できます。しかし、この緊張関係は、豊臣秀吉の時代に終焉を迎えます。

悲劇の終焉と「岸岳末孫の祟り」
波多氏の当主波多親(はたちかし)は、秀吉の朝鮮出兵(文禄の役)での失策を理由に改易(かいえき)されます。しかし、これは、秀吉がこの地を貿易拠点として、欲した戦略的な没収であったとも言われています。波多氏の滅亡に際し、親の正室や一族が岸岳城に火を放って自害。彼らが残した「いつか波多氏の末裔がこの地に戻ってくる」という悲劇的な言葉は、「岸岳末孫(きしだけばっそん)の祟り」として、今も唐津に語り継がれています。

祟りが生んだ文化「唐津焼の起源」
この悲劇は、一つの文化を生みました。波多親が朝鮮から連れ帰った陶工たちが、後の唐津焼の基礎を築きます。しかし、波多氏の滅亡により、後ろ盾を失った陶工たちは離散。長崎、伊万里、武雄などへ窯を移し、技術を広めていきました。唐津焼の素朴で力強い風合いは、波多氏の悲劇や、岸岳末孫の無念が込められた、この地の歴史そのものを写し出しているかのようです。

E-BIKEで感じる現代の共通点
E-BIKEの旅は、現代の唐津が抱える歴史の断絶と再生にも触れます。
松浦党の故郷である北波多村(岸岳城側)と厳木町(獅子城側)は、かつて、炭鉱で栄えましたが、エネルギー革命とともに石炭産業は衰退。松浦党の断絶と同じように、地域は大きな転換期を迎えました。

2005年、両地域は唐津市と合併。かつて、親族でありながら、争った松浦党の故郷が、新たな一つの唐津市として、未来を歩み始めたことは、歴史の巡り合わせを感じさせます。
E-BIKEで、歴史の道筋を巡る旅は、ただ観光地を訪れるだけでなく、この地の武士団の興亡、文化の誕生、そして、現代の街の成り立ちまで、すべてを体感できる貴重な体験です。

E-BIKEを相棒に、松浦党の故郷を駆け抜けてみませんか?ローカルガイドが丁寧に松浦党の物語を解説します。

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