命の重みについて、私が言葉にできる唯一のこと

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ブリット野口です。

私は兼業の罠猟師だ。冬の山に入り、猪を生け捕りにして、加工場へと搬入する。罠にかかった猪と対峙する時、そこにあるのは言葉の通じない、命と命の剥き出しの真剣勝負だ。

牙を剥き、泥を跳ね上げ、私を殺さんばかりに睨みつける凄まじい生気。その瞬間、私の頭には余計な思考など一切ない。ただ目の前の命をどう制するか、その一点に全神経を注ぎ込む。それが私の日常であり、繰り返してきた「生」の現場だった。

だが、先日、その日常の中に、一つの静かな「死」が割り込んできた。長年連れ添った愛犬が、病で旅立ったのだ。

彼女は猟犬ではなかった。自転車レースの会場へ一緒に出かけ、旅先では自転車のカゴに載せて、ゆっくりと街を散策した。カゴの中から身を乗り出し、私と同じ風を受けながら、珍しそうに景色を眺めていたあの姿。彼女は、私の「猟師ではない部分」の時間を共有してきた、もう一人の自分のような相棒だった。

病に伏し、日に日に細くなっていく体。最後の一息を吐き出し、彼女の体が腕の中でゆっくりと冷たくなっていくのを見届けたとき、私は言葉にできない虚脱感の中にいた。
愛犬を火葬し、わずかな骨と灰になって戻ってきた数日後、再び罠に猪が掛かった。現場に立つ私は、やはり無心だった。猪の圧倒的な生命力に飲み込まれないよう、ただ必死にその命を制し、加工場へと運ぶ。そこには愛犬を想う感傷など微塵も入り込む余地はなかった。

しかし、搬入を終えて止め刺しを行うその瞬間、私の心に静かな変化が訪れた。愛犬の最期を看取った経験が、私の感覚を、それまで以上に深く、鋭く変えていたのだ。

それまで必死に私に立ち向かってきた猪の命が、ふっと消える瞬間。私はこれまで、その姿を何度も見てきたはずだった。けれど、愛犬の死を見届けたばかりの今の私には、命が途切れるその一瞬が、これまでとは違う、胸に迫るような本当の姿を見せてくれた気がした。

光が消えた瞬間に残るのは、物理的な重さだけだ。私は、止め刺しの瞬間を、命が「ただの重み」へと変わる境界線だと感じている。猪の死は、過酷な山をたった一頭で生き抜いた、その「自立した一生」が完結する姿として現れる。

一方で、愛犬の死は、私という存在に寄り添い、共に歩んでくれた「献身的な一生」が全うされた姿としてそこにあった。どちらも、私が私として生きていくために、なくてはならない大切な記憶だ。

解体を終え、静まり返った加工場で、まだ温かい肉を前に腰を下ろす。そのとき、猪の命を解き終えた私の心に、かつて、自転車のカゴで風を受けていた、あの愛犬の姿がふわりと重なった。

自転車のペダルを漕ぐ音、カゴ越しに伝わってきた彼の鼓動。旅先で一緒に浴びた光。そんな愛おしい記憶のすべてが、猪が「ただの重み」に変わった静寂の中で、一つの確かな答えとなって私の胸に深く落ちてきた。

「命を奪うこと、命を慈しむこと。」
その二つは矛盾するものではなく、私の中では一つの「生きる」という地続きの風景だったのだ。

命は、失われるその瞬間に、それまで秘めていた圧倒的な密度を私に突きつけてくる。その「命の密度」を手のひらに感じながら、私はこれからも獲物を捌き、彼らの命を糧にして、自分の生を繋いでいく。

愛犬の死があったから、私はようやく知ることができた。命とは、比べるような「重み」があるのではない。ただ、消える間際にだけ、こちら側に手渡される、「たしかに、ここに生きていた」という強烈な手応えがあるだけなのだ。

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