草刈りをしていると人生が見えてくる

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ブリット野口です。

先日も朝から草刈りをしていた。この時期の里山では、草刈りは避けて通れない仕事だ。きれいに刈ったと思っても、一ヶ月もすればまた元通りになる。梅雨に入ればなおさらだ。

若い頃の私は、この作業があまり好きではなかった。せっかく、汗を流して刈っても、また生える。終わりがない。成果が残らない。どこか無駄な仕事のように感じていた。ところが、年齢を重ねるにつれて、少し考え方が変わってきた。草刈りをしていると、人生が見えてくるのだ。

人生には様々な問題がある。仕事の悩み、人間関係、お金の不安、健康の心配。何かひとつ解決すれば終わりだと思っていた時期もあった。
しかし、実際にはそうではない。ひとつ片付けば、また次の問題が現れる。借金を返したら仕事の悩みが出てくる。子育てが終われば親の介護が始まる。仕事が落ち着けば今度は体力の衰えが気になり始める。草が生えるように、問題もまた生えてくる。昔はそれが嫌だった。なぜ、自分ばかりこんなに問題が起きるのだろうと考えたこともある。

しかし、里山で暮らしていると分かる。草は生えるのが当たり前だ。誰かが怠けたから生えるわけではない。自然だから生える。
問題も同じなのかもしれない。生きている限り問題は発生する。それは失敗したからではなく、生きている証拠なのだろう。そう思うようになってから、少し気が楽になった。

草刈りにはもうひとつ教えられることがある。それは、目に見えない準備の大切さだ。草刈機はエンジンが掛かれば仕事ができるわけではない。刃の状態を確認し、燃料を準備し、フィルターを掃除し、ときにはキャブレターの調整も必要になる。実際の作業時間よりも、整備の時間の方が重要なこともある。人生も同じだと思う。人は結果ばかりを見てしまう。成功した人を見れば運が良かったと思い、失敗した人を見れば能力がなかったと考える。

しかし、実際には、誰にも見えないところで積み重ねた準備や習慣が大きな差を生んでいる。草刈機も、普段から手を掛けている機械は調子が良い。放置された機械は、いざ、使おうと思った時に動かない。人間も似たようなものかもしれない。

そして、最近、もうひとつ感じることがある。それは、すべてを刈る必要はないということだ。若い頃は、とにかくきれいにしようとしていた。一本残らず刈ることが正義だと思っていた。しかし、里山では、刈り過ぎることで失われるものもある。虫が減り、小さな生き物の居場所がなくなる。見た目は整うが、自然の豊かさは失われてしまう。

人生も同じではないだろうか。無駄をなくそう。効率を上げよう。もっと合理的になろう。そんなことばかり考えていると、人間らしさまで削り取ってしまうことがある。遠回りや失敗、一見すると無駄に見える時間が、その人の味になることもある。里山で暮らしていると、何でも完璧に整えることが正解ではないと気付かされる。

草刈りを終えて振り返る。きれいになった場所もあれば、あえて残した場所もある。たぶん一ヶ月後にはまた草が伸びているだろう。それでも構わない。また刈ればいい。人生も同じだ。問題がなくなる日を目指すより、問題と付き合いながら生きていく方が現実的なのかもしれない。
今日も草を刈った。そして、また草は生える。それが自然であるように、人生もまた同じなのだと思う。

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