人生の折り返しと移動の記録⑥人はいつ乗り物を降りるのか

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ブリット野口です。
この記事の続編を6回連続でブログアップしています。

里山で暮らしながら自転車屋を続けていると、さまざまな人の移動に関わることになります。
新しい自転車を買う人。電動三輪車に乗り換える人。免許を返納する人。そして、もう乗らなくなった乗り物を手放す人。

私は長い間、それらを「移動手段」として見ていました。
どの車種が良いのか。どんな整備が必要なのか。どれくらい長く使えるのか。仕事として考えれば、それで十分だったのかもしれません。

しかし、里山で暮らし、年を重ねた人たちの姿を見続けていると、少し違う景色が見えてきます。
乗り物は単なる道具ではないのかもしれない。そんなことを思うようになりました。

これまで多くの人を見てきました。八十歳を過ぎても軽トラックで畑へ向かう人。電動三輪車で病院へ通う人。セニアカーで買い物へ行く人。
一方で、突然施設へ入ることになった人もいます。病気をきっかけに外へ出なくなった人もいます。

同じ年齢でも、生き方はまったく違います。だから、私は、よく分からなくなります。人はいつ乗り物を降りるのだろう。
年齢なのだろうか。体力なのだろうか。病気なのだろうか。それとも気持ちなのだろうか。考えてみても答えは見つかりません。ただ一つ言えるのは、人はある日突然乗り物を降りるわけではないということです。

夜道を避けるようになる。遠出をしなくなる。坂道がつらくなる。草刈りへ行かなくなる。少しずつ暮らしの範囲が小さくなっていく。その積み重ねの先に、車を降りる日があり、自転車を降りる日があり、乗り物そのものを必要としなくなる日があるように思います。

私はこれまで、電動三輪車を何台も販売してきました。その後、施設入所をきっかけに引き取ることもありました。倉庫の片隅で埃をかぶった車両を見ながら考えることがあります。
この三輪車は、どんな景色を見てきたのだろう。どんな坂道を登ってきたのだろう。どんな買い物帰りの夕暮れを走ったのだろう。もちろん分かりません。けれど、そこには確かに誰かの暮らしがあったはずです。
移動とは、単に場所を移ることではないのかもしれません。
病院へ行くこと。買い物へ行くこと。畑へ行くこと。友人に会いに行くこと。それらはすべて、生きることとつながっています。だから、乗り物を降りるということは、移動手段を失うことではなく、生き方が変わることなのかもしれません。
里山では、春になれば草が伸びます。夏になれば草刈りが始まります。秋には稲が実り、冬には静かな時間が流れます。その繰り返しの中で、人もまた少しずつ変化していきます。
若い頃は気付きませんでした。しかし、今は、変わらないものよりも、変わっていくものに目が向くようになりました。

毎年見かけていた軽トラックが来なくなる。畑を耕していた人の姿が見えなくなる。自転車を修理に持ってきていた人が来なくなる。そんな小さな変化が積み重なっていきます。
そして、気付けば自分自身もその流れの中にいます。いつまで草刈りができるだろう。いつまで自転車に乗れるだろう。いつまで仕事を続けられるだろう。考えても答えはありません。
けれど、それでいいのだと思います。里山で暮らしていると、答えの出ないことがたくさんあります。

人は、なぜ生きるのか。なぜ老いるのか。なぜ移動するのか。そして、いつ乗り物を降りるのか。どれも簡単には答えられません。だから、私は今日も観察を続けています。
草刈りをしながら、自転車を修理しながら、里山を歩きながら、人の暮らしを見ています。そして、時々考えるのです。

人はいつ乗り物を降りるのだろう。もしかすると、その問いに答えはないのかもしれません。ただ、それぞれの人生の中に、それぞれの降り方がある。里山で暮らしていると、そんな気がしています。

<人生の折り返しと移動の記録 シリーズ一覧>
人生の折り返しと移動の記録①誰も乗らなくなった電動三輪車
人生の折り返しと移動の記録②最後の免許更新
人生の折り返しと移動の記録③草刈りに行けなくなった日
人生の折り返しと移動の記録④残された電動三輪車
人生の折り返しと移動の記録⑤倉庫に残されたもの
人生の折り返しと移動の記録⑥人はいつ乗り物を降りるのか

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