人生の折り返しと移動の記録④残された電動三輪車
ブリット野口です。
この記事の続編を6回連続でブログアップしています。
ある日、電話が鳴る。「施設に入ることになりました」自転車屋をしていると、そんな連絡を受けることがあります。
修理の依頼でもなければ、新しい自転車の相談でもない。これまで使っていた電動三輪車や自転車をどうしようか、という相談です。
私はハイエースに乗って引き取りへ向かいます。何度も通った道です。納車した時も、この道を走りました。その時は新しい乗り物を届けるためでした。
しかし、今日は違います。役目を終えた乗り物を引き取りに行くのです。里山では珍しい話ではありません。年齢を重ねるにつれて、病院へ通う回数が増える人もいます。家族が心配するようになる人もいます。転倒をきっかけに外出が減る人もいます。そして、ある日を境に施設へ入ることになる。それは突然のようでいて、実際には少しずつ準備されていた出来事なのかもしれません。
引き取りに伺うと、家族が待っています。「お世話になりました」そう言われることが多い。私は何も特別なことをしたわけではありません。ただ、自転車を売り、修理し、ときどき空気を入れてきただけです。それでも家族にとっては、一緒に暮らしを支えてきた存在のように感じられるのでしょう。
玄関先には電動三輪車が置かれています。少し埃をかぶっていることもあります。最近まで乗っていたことが分かることもあります。
タイヤの減り方やブレーキの状態を見ると、その人の暮らしが少しだけ見えてきます。
スーパーへ通ったのか。病院へ通ったのか。近所へ出掛けていたのか。機械は言葉を話しません。けれど、使われた痕跡は残っています。
私はその三輪車をハイエースへ積み込みます。家族はそれを静かに見ています。不思議なもので、その場には達成感も悲壮感もありません。ただ、一つの区切りがあるだけです。
人生には様々な節目があります。学校を卒業する時。就職する時。結婚する時。子どもが生まれる時。けれど、年齢を重ねると別の節目が増えてきます。
車を降りる時。畑をやめる時。草刈りをしなくなる時。そして、施設へ入る時。
若い頃には想像もしなかった節目です。私がハイエースで運んでいるのは、単なる乗り物ではないのかもしれません。その人が自分の力で移動していた時間そのものなのかもしれません。だから、引き取りの帰り道は、いつも少しだけ静かな気持ちになります。納車の時は未来があります。これからどこへ行こうか。何をしようか。そんな期待があります。
しかし、引き取りの時は違います。終わりというより、次の段階へ進むための準備のように感じます。施設に入ることは不幸なことなのでしょうか。それとも安心を手に入れることなのでしょうか。
私は分かりません。家族によっても違うでしょう。本人によっても違うでしょう。
ただ、里山で暮らしていると、人は最後まで一人では生きていけないということだけは感じます。どこかで誰かの助けを借りる。家族だったり、地域だったり、施設だったりする。それは特別なことではなく、自然な流れなのかもしれません。
ハイエースを運転しながら、私は時々考えます。もし、自分が年を取ったらどうなるだろう。いつまで仕事をするだろう。いつまで草刈りができるだろう。
いつまで自転車に乗れるだろう。答えはありません。だからこそ、考えるのかもしれません。
その日の夕方、引き取った三輪車を倉庫へ降ろします。まだ十分使える。少し整備すれば、また誰かが乗れるかもしれない。そう思いながらも、その三輪車が見てきた景色のことを考えます。買い物帰りの坂道。病院までの道。季節ごとに変わる田んぼの風景。それらはもう戻りません。
けれど、人生とはそういうものなのかもしれません。
施設へ向かう送迎車を見送る人もいれば、役目を終えた三輪車を見送る人もいる。
里山で暮らしていると、そんな静かな別れに何度も出会います。
そして、私は、そのたびに思うのです。人は何を手放し、何を残して生きていくのだろうかと。
<人生の折り返しと移動の記録 シリーズ一覧>
人生の折り返しと移動の記録①誰も乗らなくなった電動三輪車
人生の折り返しと移動の記録②最後の免許更新
人生の折り返しと移動の記録③草刈りに行けなくなった日
人生の折り返しと移動の記録④残された電動三輪車
人生の折り返しと移動の記録⑤倉庫に残されたもの
人生の折り返しと移動の記録⑥人はいつ乗り物を降りるのか