人生の折り返しと移動の記録③草刈りに行けなくなった日

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ブリット野口です。
この記事の続編を6回連続でブログアップしています。

里山で暮らしていると、草との付き合いは避けて通れません。春になると芽吹きが始まり、梅雨を過ぎる頃には一気に勢いを増します。少し油断すると、畑も空き地も農道も草に覆われてしまう。だから、里山では、草刈りは特別な作業ではありません。暮らしの一部です。

私も時間を見つけては草刈機を担ぎ、林道や空き地を刈っています。暑い日には汗だくになりますし、正直なところ楽な仕事ではありません。それでも草を刈り終えた後の景色を見ると、不思議と気持ちが落ち着きます。整った景色には、人の営みが見えるからかもしれません。そんな草刈りを続けていると、あることに気付きます。

毎年、草を刈っていた人が、ある年を境に来なくなるのです。最初は気付きません。たまたま都合が悪かったのだろうと思います。しかし、翌年も来ない。そして、そのまま姿を見なくなる。集落では珍しいことではありません。年齢を重ねると、まず、山に行かなくなります。次に畑へ行かなくなる。そして、最後に家の周りだけを管理するようになります。少しずつ暮らしの範囲が小さくなっていくのです。

私は草刈りをしながら、その変化を何度も見てきました。ある人は八十歳を過ぎても草刈機を振っていました。また、別の人は七十代でやめました。そこに決まった年齢はありません。
体力だけでもない。病気だけでもない。それぞれに事情があります。ただ一つ共通しているのは、草刈りをやめる日が突然やって来るわけではないということです。最初は、斜面を避けるようになる。次は、広い場所だけを刈るようになる。やがて、家の周りだけになる。そして、誰かに頼むようになる。少しずつ変化していきます。

私は自転車屋をしていますが、実は移動手段よりも先に失われるものがあるのではないかと思うことがあります。
それは仕事や役割です。病院へ行くことはできる。買い物もできる。しかし、草刈りには行かない。畑もやらない。そうなると、人は外へ出る理由そのものを失ってしまうことがあります。移動するための目的がなくなるのです。だから、草刈りを見ていると、その人の暮らしが見えてくる気がします。
草が伸びているからといって怠けているわけではありません。そこには年齢があり、体力があり、人生があります。草の伸び方ひとつにも物語がある。そんなことを思います。

先日も、以前はきれいに管理されていた空き地の前を通りました。今は草が腰の高さまで伸びています。誰も手を入れていません。そこを見ながら、ふとその人のことを思い出しました。毎年、暑い中でも黙々と草を刈っていた姿です。もう草刈りには来られないのだろうか。それともどこかで元気に暮らしているのだろうか。答えは分かりません。けれど、里山ではそうした変化が静かに積み重なっています。
若い頃には気付かなかったことですが、人は何かを始める時よりも、何かをやめる時の方が多くなる時期があります。
車を降りる。畑をやめる。草刈りをやめる。その一つひとつは小さな出来事です。しかし、振り返ると、それは人生の大きな節目だったのかもしれません。

私も草刈機を背負いながら考えることがあります。自分はいつまでこの斜面を登れるだろうか。いつまで草刈りを続けられるだろうか。その時になったら何を感じるのだろうか。答えはまだ分かりません。ただ、今年も草は伸びています。だから、私は今日も草刈機を担いで里山へ向かいます。そして、刈り取った草の向こうに見える人の暮らしを、少しだけ眺めています。

<人生の折り返しと移動の記録 シリーズ一覧>
人生の折り返しと移動の記録①誰も乗らなくなった電動三輪車
人生の折り返しと移動の記録②最後の免許更新
人生の折り返しと移動の記録③草刈りに行けなくなった日
人生の折り返しと移動の記録④残された電動三輪車
人生の折り返しと移動の記録⑤倉庫に残されたもの
人生の折り返しと移動の記録⑥人はいつ乗り物を降りるのか

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