「判断」を研ぎ澄ます里山:駆除班総会で感じた、命と向き合う責任の再編集
ブリット野口です。
先日、厳木町で開催された駆除班の総会に参加してきました。その会場に漂っていた空気、交わされる言葉の断片から見えてきた「現代の狩猟と地域」が抱える歪み、そして、私が考える「BULLITT SATOYAMA LAB」の進むべき道について、思考を整理したいと思います。
義務と沈黙が支配する「総会」の風景
総会の会場に入ると、そこには地域農業の最前線を守り続けてきた人生の大先輩方の姿がありました。議題の中心は、昨年度の捕獲頭数の報告と、それに伴う報償金の分配、そして、次年度の体制確認です。
しかし、そこで交わされる対話は、極めて事務的で淡々としたものでした。本来、野生動物という強烈な「生」を相手にしているはずの活動が、ここでは「行政的な処理」として記号化されています。そこには、命を奪うことへの葛藤も、里山の未来を語る熱量も、表面上は見当たりません。
この「総会だけが活動の接点になっている」という現状の背景には、いくつかの根深い理由があると感じました。一つは、多くの従事者が農業者であり、駆除を「被害削減のための避けられない作業」かつ「手間賃としての副業」と割り切らざるを得ない現実です。
そして、もう一つは、動物を殺して報償金を得ているという事実に対し、地域社会の中で「目立ちたくない」という心理的なブレーキがかかっていることです。
組織の二重構造:猟友会と駆除班の役割
ここで改めて、私たちの活動を支える組織の仕組みを整理しておく必要があります。
①猟友会(プラットフォーム)
狩猟免許保持者の親睦や技術指導を行う一般社団法人です。狩猟登録の代行やハンター保険の窓口となり、私たちが「狩猟者」として山に立つための法的な土台を支えています。
②駆除班(実動ユニット)
猟友会の会員の中から選抜され、自治体からの委託を受けて有害鳥獣の捕獲を行う組織です。行政の依頼で動くため、狩猟期間外でも活動が可能であり、報償金によって、活動経費を相殺できる仕組みになっています。
この二つは、目的こそ「個人の楽しみ(狩猟)」と「公共の任務(駆除)」で分かれていますが、実際には同じメンバーが二つの帽子を使い分けて活動しています。この「行政の代行システム」が、ボランティア精神とわずかな報償金に依存しているため、担い手不足や高齢化を加速させる要因にもなっています。
「判断力」を軸にした文化の再構築
私は今、あえて報償金を受け取らず、生け捕りにした猪を加工所へ搬入し、ジビエ食事会を開くための素材へと加工しています。それは、既存の仕組みから外れるためではなく、その「先」にある狩猟文化を繋いでいくためです。
BULLITT SATOYAMA LABのコンセプトである「土地を読む身体を取り戻す」。この視点に立てば、狩猟とは、単なる排除の作業ではなく、土地の歴史や地形、獣の痕跡から「最適解」を導き出す高度な「判断力」を養う訓練です。
総会で感じた「目立ちたくない」という後ろめたさは、活動が「殺すこと」に終始しているからではないでしょうか。しかし、私たちが山で行っているのは、「地形を読み解き、資源を理解し、地域循環を考える」という、極めてクリエイティブな「環境との関係性の再編集」です。
「編集者」的視点で里山をデザインする
これからのコミュニティ形成に必要なのは、武勇伝でも地方創生のテンプレートでもありません。都市化で失われた感覚を、里山という実験場で再接続するプロセスです。
サラリーマン世代や、編集者、デザイナーといった知的感性層にとって、現在の「駆除班」の空気感は魅力的に映らないかもしれません。しかし、それが「判断する身体を取り戻すためのフィールドワーク」であると定義し直せば、そこには、全く新しい価値が生まれます。
私は、猟友会や駆除班という伝統的な組織に敬意を払い、その一員であり続けながらも、里山で体験を通して、判断する機会を提供したいと考えています。それは「説明しすぎない」ことで、参加者の違和感を誘い、「土地を読む楽しさ」を共有していく試みです。
厳木の未来を獅子城の石垣のように積み上げる
厳木の歴史が、先人たちの「環境に適応するための判断」の蓄積であったように 、私たちの狩猟もまた、この時代の里山を守り、使い倒すための「判断の痕跡」であるべきです。 
報償金の多寡ではなく、どれだけ研ぎ澄まされた判断を下し、どれだけ豊かな食卓を囲めたか。その価値観を共有できる仲間が集まる「共同体(SATOYAMA LAB)」を形成していくこと。
総会という、一見すると停滞しているように見える場所のすぐ隣で、私は新しい文化の種を蒔き始めています。
命と向き合う責任を「誇り」に変え、判断する身体を持って山を歩く。その先にこそ、真に持続可能な里山の未来があると信じています。
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